北九州、霧島、天草 2014/04 

  桜を訪ねて北九州から天草

天草松島の知十橋遠景


 2014年3月待ちに待った桜の季節、春のツーリングは九州から始める。
昨年の南九州は桜には少し遅すぎた。
今年の3月は寒い日が続いたので、少し待って24日に出発。
ばっちり決めた筈の天気と日程。前半は雨が多くて。
 今回は、輪行の容易さを考えて、ジャイアントMR4行くことに、ただあのドロップハンドルのブレーキレバーはとても握りにくい。ひっくり返してブルホーン形に改造。これならどんな下り坂でもブレーキキングは安心。

さらに、トピークの荷台にサイドバック2個がつけれるられるように、バネ付きのワイヤーを両側に張りました。大いに得意であったけれど、1日目の下り坂、荷物が跳ねて最悪の結果になりました。(全然使い物にならない。)
 折り畳みの出来るMR4は、フレーム長が短いで、身長176の私には何となく1輪車に乗っている様な感じです。タイヤも細いので、雨の日の下り坂はいささか苦しい。
長距離に耐えられるかが??今回の旅の目的の一つ。早くもサイドバック方式はだめです。







1日目 3/24

朝、家からはサイドバック2つ縛って背中に負いとりあえず駅まで。
駅で自転車を畳んで新大阪の新幹線口、結構長い距離を背負って歩くのは相変わらず鬱陶しい。

 山口駅でこだまに乗換えて新下関まで。何で下関かと云うと戊辰戦争の初め高杉晋作と奇兵隊の活躍した関門海峡と小倉城を見るためです。


 11時、新下関で関門の方角を聞いて走り出す。いつも駅とか、港では方向音痴になります。

1時間ほどで、関門海峡を見下ろせるのは下関の火の山公園に登ります。
 写真でよく見る関門海峡です。ここで1860年に外国船打ち払い戦争が起こったそうですが、想像してください。英国、オランダの軍艦がここを通過して、長州藩の砲台を攻撃する様子。ロマンですね。


この砲弾、戦艦大和の主砲18"だそうです。先端は硬い鋼で甲板を貫くためです。今ならさしずめウラン鋼を使うでしょうね。なぜここにあるのか?近くの海から引き上げられたそうですが?まさか、実弾演習の残弾ですかね。射程45Kmです。
下関側火の山からの関門海峡

MR4の自転車で、後輪がダンパーでクッションになっている。従って道の段差で荷物が飛び上がり荷台からはずれる。

この火の山公園を下る時に、2つのサイドバックの固定方法が全く役立たず、下り坂の一寸した段差で外れてしまい。10分で下れる坂を1時間近くかかって下りました。
自作の荷台補助ワイヤーは全然役立たず、この旅行をあきらめて一旦家に帰り従来のクロスバイクで再出発のつもり。

ところでこの背景は壇ノ浦合戦の義経八艘飛びです。
もっと面白い風景もあったんですが、何せしょっちゅう外れるバックに気が滅入って写真を撮る来もせず。小倉の宿に行くことばかりで頭いっぱいでした。

この、写真は関門海峡トンネルで入口です。
渡し船に乗るはずですがパスです。
無愛想なトンネルを一路小倉をめざしました。 小倉までは、まず門司駅、など沢山の明治旧跡があるのですが、荷台の不具合で余裕無しです。いまから考えればもったいない事をしたものです。

そんな訳で、5時頃小倉の東横インに着きました。 夕食は近所のコンビニで買った弁当ですませ、早々と寝たんですがふと気がついたんです。”サイドバックを一個にすて、荷台に載せれば問題ない。”
なんでこんなこと気がつかない?起きて荷物の整理、なんと要らぬ物を持って来ているのか。充分一個にまとめられます。
やれやれこれで旅が再開できる。余分のサイドバック1個は宅急便で送り返しました。
正直なところ、3日の朝までいろいろミスがあり予定道理の出発ができなかったんです。
2日目 3/25


小倉城は昨日に見ることになっていたのですが、朝ゆっくり見て、今日の日程の博多には時間が足らねば途中輪行することにしました。というのも午後は雨とのこと。 




小倉城は幕府軍の長州二次征伐の四境戦争で、晋作などの奇兵隊に攻められて、幕府側がさっさと自放火して撤退した城です。
昭和に再建された城の内部単なる歴史館ですが、そばにある社殿は、復元されて立派なものです。
 
 それより松本清張記念館が公園内にあり、2時間ちかく粘って彼の小説の主題である戦後の疑獄事件の勉強をしてました。 私の子供の頃新聞を賑わしていた帝銀事件、松川事件などを子供ながら興味があったのですよ。

 午後は雨が降るとのことで、博多への道はあっさり西小倉の駅から鹿児島本線で輪行することにしました。駅で自転車を畳んでいて気がついたのですが、前車輪だけ外して、ハンドルを180°回転させると、荷物もおろさずカバーを掛けて、後ろ車輪を転がして行ける事を発見しました。おかげでチョクチョク輪行するいい加減な旅になりました。

 そんな調子で電車に乗ったのですが、いつまでたっても雨が降り出しません。それで博多の手前で下車、海の中道の先端志賀島に行く事にしたのですが、走り出して10分もしないうちに雨が降り出し30分後は大雨です。やっぱり天気予報は見くびるものではなさそうです。
結果、新しく買ったMontbelの雨具の性能確認をするだけの事になりました。
 志賀島行く事を断念して、香推線の先端駅西戸崎でから再び輪行で博多のYHに。つくづくいい加減な自転車旅行です。
博多のYHは大きなところですが、利用者も少なくお勧め出来ませんね。

3日目 3/26
 昨夜、携帯と自転車ナビの充電しようとして、古いタイプのミニUSBコードが見あたりません。何と!この前東京に行ったときも同じこをして、電気店を探し歩いたです。今回、前日に宿を予約する計画ですので、どうしても携帯は必要です。持ってきたNex7も使いたいし。


 朝、博多駅まで戻って9時半開店のヨドバシカメラをひたすら待ちました。
もっとも、かなりの雨でしたので雨宿りを兼ねたようなものですが。

幸いにも、10時には雨も止んで、一路唐津に向けて出発です。

まずは、福岡城ですが、大壕公園の中にあり石垣だけが残っています。
ここは、黒田官兵衛ゆかりの城で、NHK大河ドラマの観客受け入れ準備で忙しそうな感じです。
彼は、石田三成と中が悪く、朝鮮征伐のおりに、苦汁を飲まされたので、関ヶ原では東軍についたんですよ。
秀吉に忠義な彼も、暴君に変貌した老秀吉と官僚トップの三成には見切りを付けていたんです。現代でもよくある 話です。



福岡の地下鉄はJR筑肥線の姪の浜まで伸びており、このあたりに元寇の防塁跡があるとの事で寄って見ました。
ただ、石がごろごろしているだけのことです。







今日は輪行はしませんでした。その代わり唐津半島先端ではなく、西唐津が泊りにしました。
 唐津の大橋を渡って唐津市内に入ります。
唐津城は城門が重文です。
天守は昭和のの再建ですが、石垣が当時の物を使ったかげんで、現在耐震工事中で興ざめなり。
城山からの大橋は良いですよ。



 今夜の泊まりは西唐津の民宿です。 昨晩いろいろ検索してやっと見つけた
んです。工事の人達が4,5人常宿にしている宿ですが結構居心地の良い宿です。7500円です。
wifiはありません。事前にデータを入れて来たiPadも一部しか表示出来ないです。やっぱり携帯ルータがないとだめです。


4日目 3/27

 やっと計画の行程で走れます。
お天気も良い。唐津の半島の西海岸沿いに北上。秀吉の朝鮮侵攻の出先陣の名護屋城に行くのです。意外と楽に到着です。



名護屋城跡は、40年前に来た時は崩れてた石垣だけが残るまさしくロンマンが感じられる廃墟でしたが、今は立派に整備された公園や、大きな歴史博物館なども出来、なんだか拍子ぬけの感じです。

「兵どもの夢の跡」です



 この城を中心にして豊臣に大名陣屋の位置を示しています。


 徳川さんだけは無い。どうして彼は参戦を逃れたのでしょう。
政治家はかくあるべしということですか。       






唐津半島の先端の名護を回ると玄海町です。
そう、九州電力玄海原子力発電所があります。昨日、この玄海に宿を取ろうとして満員で断られましたが、よく考えると再開工事で沢山ある民宿も一杯だったんですね。多分どこの原発も再開を目して改造工事が大変なんでしょう。
無駄な出費になる可能性もあるのにね。



玄海町を過ぎて、肥前大野の西側の大橋を渡り、鷹島のフェリーに乗り対岸の平戸街道の今福に渡る予定。出港は12:30のフェリーです。これに遅れれば4:30までは無い。これだと平戸までは無理。
たった1日3便です。 何とか間に合うように昼飯もなしで脇目もふらず走る。                                               




やっと、唐津半島と鷹島をつなぐ大橋です。
この橋が出来たためにフェーりーは開店休業状態だそうです。


フェリー乗り場の殿浦に1時間前に到着。売店も無し。切符売り場も人影無し。道まで間違えてしんどい思いをすしてきたのに、販売機で、コーヒーを買ってカロリーメイトで昼食。         
フェリーは200t
乗客は3名、他自転車1台、軽トラ1台
のんびり対岸の今福まで30分の船旅。

今福でやっと見つけた喫茶店無難なところで、親子丼を注文。
どこからとママさんが聞く。京都ですといえば、私も京都とこと。
私の京都は家内の住所だけど。いまさら高槻とも云えない。
ママさんはいろいろ親切に平戸までの道の様子を教えてくれる。
彼女の云うには、車が多いので、すぐそばの松浦電鉄で田平まで云った方が良いそうだ。松浦電鉄は平戸の手前で、大きく南に曲がり佐世保に行く電車です。
今日の宿は平戸からさらに25kmほどの生月島の民宿です。
実は鷹島のフェリーの12:30に間に合わな可能性もあり一度断ったのです。
「待っていたのに」と女将さんの残念そうな返事が気になって、フェリーに乗ってから再度予約を入れました。
田平で下車平戸大橋を渡り、平戸市内は素通り。
ひたすら生月まで走るが登り下りの繰り返しの連続、おまけに道標がいつまでたってもあと8Km。本当に疲れました。あとで聞くとこのコースは競輪選手が練習にくるそうです。
やっとの事で生月橋に到着。もう5時過ぎです。




民宿は東京からの2人ずれが来ており、やたら刺身に詳しい人達です。
空港の案内所で魚の美味しいところとリクエストして、適当にきめて来たそうです。




おやじさんは漁師で定置網の親方で
やたら刺身談義が好き。
焼酎は飲み放題です。
写真は私の一人前の料理、さらにヒラメの煮付け。5人前の量です。
いくら食べての減らない刺身、当分刺身は食べないでおこう。私には吉野屋が合ってるです。

酒と刺身の好きなかた是非いらっしゃい。









5日目 3/28




生月は西側が農道ですが朝早く走るが車など無い。広い自転車専用道路のようなものです。快適、快適、アップダウンあり。



この島の北の先端が大婆鼻灯台と手前の50mの柱状断崖が観光ポイントです。右側は県道42でこの農道との合流点です。

2時間ほどで柱状断崖の展望台に到着。観光バスのがやってきてやたら騒がしい。どうも中央の県道を走って来た様です。




あと、2Kmほどで灯台に到着するが手前のジグザグの登り坂をみて退散です。きっと灯台付近は観光バスと土産物屋が並んでいるのすから。?


帰りは、中央の県道42を走ると悠々1時間ほどで、生月大橋に到着。
行きしの西の海岸線に比べて何と楽なことか。









 復路の生月大橋を渡りて、道なりに上がれば平戸の町に帰るが、西に右折狭い県道19号を南に登る。もはや、キリシタンのザビエル平戸の町は見ることはない。 大いに残念。

県道といってもやたら狭かったり、1/14万の地図にはない道標があったりして
考えさせられる、本当の田舎道ですが、突如夢の国に出くわす。
地図にある根獅子の浜です。
透明コバルト水、誰一人といない白砂。ビキニの彼女がいれば本当に夢かと思う。





 裸で泳げば、フランス映画のシーンです。 ドヌーブが良いね。
もはやオバンですか??




この西海岸はこんなラグーンが続くらしいけど、道標の地名が地図にないので躊躇してしまう。



  そんな訳で結果、山側の県道で、早々と前津吉港のフェリー港に到着。出港は3:30だけど今は2時。古い町中を食堂を探すもまたもや無し。
万屋さんに入ってもパンも無し。
カップラーメンがあるので、お湯を沸かしてもらって店の中で食べる。
実に旨い。店番の若い奥さんと世間話をしたけど、何を話したっけ?
 九州人は話し好きです。東北人はり話は苦手、多分方言のせいかも。
方言は、とっても素敵ですが、秋田の人は恥ずかしいンだそうです。
北海道は標準語で東京にいてる感じ、ダメだナー





 2時間おきの高速フェリーで、車は乗れません。
佐世保まで2300円高いね。高速料金だそうです。
乗客は佐世保からのお婆ちゃんと二人です。両親墓参りにきたけど、村にいた同級生もほとんどいなくて寂しい墓参りだそうです。





高速船とのことであっという間に佐世保港に到着。
自衛艦が数隻停泊。内火艇が士官をを運んだりしている。
自衛艦は桟橋に停泊しないです。外泊者防止かな。




 佐世保の港です。米艦隊、自衛艦などで、軍港の様子思いきや、ごく普通です。キャバレーや怪しげな飲み屋など期待していたんですが、
裏道はいろいろあるんでしょうね。
宿は駅前の西海荘です。小振りなBSHで快適でした。
今日は高校生の団体がいるから外食の方が良いと女将さんが言うので、
面倒だから、いつもの定番、吉野屋です。

5日目 3/29

 ワァ、朝から雨、小雨ならせめて九十九島展望台までと出発したとたん
どんどん降り出す。あきらめて長崎まで輪行。
長崎はさらに大雨、止みそうにない。案内所で観光地図をもらうが驚いたことに方角表示がない。 自分の行先の浦上天主堂か大浦天主堂が地図の両端にある。
 何度も人に聞いて別ものということがわかり、方角も理解出来た。地図は上を東に書いてあるのだ。

 とりあえず、昼めしに、駅ビルで九州ラーメンを食べる。いろいろオプションを聞かれるのでいい加減な返事をするが、麺の硬さは博多で注文して懲りた。堅めとはほとんど茹だってない麺ですぞ。





 今日の宿は長崎カトリックセンターYHで浦上天主堂の横にある。
長崎駅から30分ほど北ですが、ひどい雨。石畳に水が流れて自転車がすべる。登りだから良いけど、下り坂ならきっと転けるかな。怖い。
 「長崎は今日も雨だったとシャレてみたけど。」

再建された大浦天守堂。
 立派なYHに到着、受付の2人はとってもフレンドリーです。自転車のために車庫まで案内してくれました。 大体自転車など雨ざらしで当たり前といわんばかりの宿も多い。 こんなことでもチャリダーは嬉しいのです。
4時過ぎ、YHで雨傘をかりて5分で行ける爆心地と平和公園にでかける。


雨に煙る爆心地 母子像1945/8/9 11:02
原爆はこの上空500mで核爆発。雨が降ってるので、本当に悲しそうな母。
満開の桜が雨に叩かれ散らばっている。
何んという悲劇か!!


近くの平和公園の像。
高校の修学旅行の時に来た時より小さく見える。

平和公園に上がる石段は短いエスカレータがついている。

乗ると、天国に行くような気分です。
天国にもいろいろあるけど。
酒は旨いし、ねちゃんも綺麗し~ア~
と云う訳ではありません。
行けば、神様にお祈りの毎日ですぞ!!


YHに帰って同室の千葉からのチャリダーおじさんのチャリンコ道中を聞かせてもらう。まず、雨など気にしない。じゃんじゃん走る。
坂道は18°でも平気きで登る。(多分8°の間違いです。) 1日100Kmは軽い。荷物は40Lのザックを背負ってのチャリンコ。
 (アッシ(私)など足下にもよれないな。特に雨と坂道は極力回避のチャリン道中ですが。)お歳はいくつ?同年代の72歳だそうです。へー!!
自転車は34mm幅のブロックタイヤ、ディスクブレーキ付きで、猪木がのっても良いよう幅広カーボンフレームです。(CX用のMTバイク?)砂漠でも走れるかな?
小生の発注中のロードは細身のクロモリです。


6日目 3/30

朝、まだ雨です。昼から晴れるとのこと。
出かけは降っていなかったので、雨具を付けず出発、30分もしない内に降り出す。考えてみるとMontbel 自転車ようの雨具はむれないから、天気予報どうりの着用で良いのだ。
長崎駅の前の道路206号から34号日見バイパスを抜けて住宅街を浜側に下る。雨も止み薄日も差してくる。



橘湾を251号でひたすら東に進み湾に沿って南に方向を転じると写真のような丸い大きな漬物石が累々とする千々千石海岸を出る。
石を盗るなと立て札があるが、近所の人はほとんどここの漬物石でしょうね。本当によりどりみどりです。




国道と平行の海沿いの道は、古い苔むしたトンネルなどが有り。川端康成風の道。小浜温泉まで続く。
この島は木津弁天公園らしい。




小浜温泉市街に入ると道沿いにガス抜き土管が10mおきにあって蒸気が出ている。
湯量の豊富さは日本一とか、多分下水管もガス抜きが必要か、或いは単なる見せ物か?



観光案内所でオバマ大統領とツーショット。
確か、福井の小浜も手紙を出したりしていたと思うけど、肖像権は問題ないのでしょうか。
 ついでに韓国ペク様にお願いして、少女の像などはどうでしょうか?



案内所で聞いて古い小浜温泉町並みを探訪。
これはリサイクルキャンペインの出店、
1)不要小粒ジャガイモをつぶしてフライにする。
2)温泉で廃熱発電の実証実験
 一つ賢くなりました。
60度以下の排水でいかに発電するか、京大院生の彼に説明してもらいました。


小浜温泉歴史資料館
 くみ出し櫓の遺構




ところで、今夜の泊まりは国民宿舎です。初めてです。飯は期待していましたが、ぜんぜん。刺身なんぞいらないから、米は海外製、このまずさは何とかすべき。
うまい地元の米と自家製の漬物だけで最上級のおもてなしができるはず。

7日目 3/31

いよいよ今日は本チャリンコの主題 雲仙峠越え天草です。
雲仙岳は普賢岳1359mと平成新山1486その他かたなる国立公園です。
平成新山が15年前溶岩ドームを作って大爆発をしたことは記憶にあるとこです

国道57号は雲仙温泉をこえ山の南側の峠754mを越え島原に下ります。

海抜0から正味750mを15kmで登るので、一寸ビビっていたのですが朝一のアルバイトで意外と簡単でした。
実は半分は歩いていたのですが。
最初に到着するのが雲仙温泉です。
すぐに観光案内所に行って、山頂近くに行くバスを訪ねました。乗り合いタクシーロープウエイ口まで運んでくれるそうです。素晴らしい景色を期待して片道700円を投下することにしました。予約が必要だとのこと。あと30分で出発。
登山道路は自転車は通行禁止です。
要するに狭い専用道路です。



雲仙町という感じで大きく開けた温泉
街、 いわゆる何とか地獄のもあります。温泉卵4つ200円、昼飯代わりに買いました。
内2個は乗り合いタクシー待ちのフランスの2人にあげました。
予約のタクシーはマイクロバスで20人近くが乗っています。





 後ろに見えるのが普賢岳でやたら風が強くて首をすくめて写真を撮ってもらいました。

平成新山はロールウエイで登って東側になるので見えません。
要するにロープウエイに乗ってさらに上に行くようにとのこと。
昨日の橘湾からはきっと見えたのでしょうが、あいにくの雨上がりの雲で見ることはありませんでした。


この写真は西側の橘湾越しに見た平戸でしょう。晴れてればいいのでしょうね。




ロープウエイ下を少し登りましたが
2時半に戻るバスを考えあきらめて下りました。自転車専用の我が足には下り道は結構苦しいです。
なんとか、バス間に合って温泉街前戻り昼食です。
この上下逆に毛の生えたお兄さんは
ドイツからの留学生で、昼飯をたしかおごったような記憶があります。
メールアドを交換したが全く読めない ドイツに行くときに案内させようと思ったのに、へたくそな字。


島原への峠はもう少し登ったところからで、さっき乗り合いタクシー来た道を100mほど登ります。



今度は下り20Kmで、人生最高と云いたいけれど、道が荒れていてブレーキングの連続。

ブルホン型に改造して置いてよかったです。



やっと島原側に降りて、雲仙平成新山が見えました。 左後方が普賢岳。

この山1991年6月3日の溶岩ドーム爆発と火砕流は43名の命を奪ったのは記憶に新しい。






この新山を右手に県道を北上すると、まもなく島原電鉄の終点島原につく。
ちょうど3時過ぎで、先に、島原YHに寄ると、ちょうど管理人の老夫婦さんが買い物から帰って来たところです。荷物を預けて島原城に行く。
田舎の城としては大変立派な城ですが、この築城の為の租税と苦役が一揆の一因になったそうです。


この城は、天草四郎らの一揆軍が包囲したけれど落ちなかったそうです。
考えると、槍や刀で城を落とすのは大変です。
兵糧攻めが効率的、或いは裏切りです。
一揆軍には無理ですが。





内部はキリシタンと島原の乱の資料館になっています。

8日目 4/1


天気晴朗、風無し。

今日は南に下ってキリシタン一揆終焉の原城に向かう。
海岸線近くを走るので平成新山がよく見える。少し後方のピークは普賢岳。







途中、その後発生した大規模な土石流で海岸近くの家までのがゆっくりと埋もれていく。
震災遺跡保存資料館です。










島原の乱終焉の地原城跡です。
写真のお城はパネルですよ。離れて見ると本物のようで、岐阜の墨俣城を一夜で
建てた秀吉の話は、本当だったんだと再認識しました。

 この原城は当時から島原城に移築されていて石垣だけが残っていたのですが、島原、天草などで蜂起した一揆団が、おいつめられ最後に、この島原南部の原城跡に立てこもりったのです。 
 戦績の石碑と天草四郎の可愛い像だけがある城跡です。ちょうど桜の花が満開ですが、数人の観光客だけのもの悲しい城跡広場です。














キリシタン農民が如何に守り、よく戦い、殉教していったかの戦績は綴られた碑と

わずか14歳の少年天草四郎の顔、本当に子供らしく作られている。
昔、少年雑誌でみた凛々しい感じじゃない。 やっぱり、西洋の鎧を着せてあげたいね。
















原城跡あとに小一時間ほどで、津吉フェリーポートに着きました。
これから、天草に渡る訳です。車数十台と、船客10名ほど。
雲仙、島原は長崎県ですが対岸の鬼池港で熊本県になります。












鬼池から天草町までは椰子の林のある海岸を走ります。

天草市には立派な殉教公園にキリシタン殉教歴史館がありました。最後の五メータはエスカレータで上がりましたが、まさしく天国に行く感じ。
殉教キリシタンの碑
天国へのエスカレータ


天草の本渡から有明に向かう瀬戸大橋はやたら狭くて自転車は狭い歩道ぎりぎりを押して渡らなければなりません。
 これからから三角まで渡っていく天草五橋はすべからく狭く、歩道もやっと自転車を押して通るのが精一杯の幅でした。それにずいぶん高いところにあるので、歩いて渡るには不便過ぎる。???
日野正平ならきっと歩行困難ですので、是非どなたか、心旅にお手紙を出されて下さいませ。



 狭い橋をわたりながら上流を見ると昇開橋があるではないか。天草本渡瀬戸歩道橋と云うらしい。
自転車も乗って渡っています。
あほらしい!



天草瀬戸大橋を渡って通称ロザリオラインは海沿いの道路で教会や四郎像があったり、四郎ヶ浜など海水浴場があったりするが、どうもいただけません。天草四郎公園などもあります。
 予定の宿は赤崎ですが、つぶれかけたカラオケ店の裏の朽ちた民宿です。運の良いことに、今朝宿から電話で、手を怪我したので、知り合いの宿を紹介するとのことで、安心はしていたのですが、紹介されて宿は、戻ること約4Kmで魚屋の裏の立派な旅館でした。
料理も1泊7千円でご覧のとうり。


9日目 4/2

今日は天草と有明の島に架かる五つの橋を渡って熊本に行きます。
 きっと素晴らしい橋の眺めでだと期待します。お天気も良い。
次々と現れる橋、全部対抗2車線、申し訳程度の80cmの歩道、自転車を乗ることすら、押して渡るも狭すぎてペタルが足にあたる。 車道を走るには車の量も多い。 おそらく自転車など考えていない時代の橋、そう言えば高知の桂浜にもあったっけ。
第五橋




第四橋


第三橋


第二橋


第一橋天門橋

上天草の天門橋が天草五橋の入り口で、渡ると熊本の三角港です。
これを島原湾に沿って宇土半島を熊本市に向かって北上します。
すぐに、明治三大築港 西港(明治20年開港)に到着。
実際は三角港までの鉄道迂回した為に、廃れてしまいましたが、明治の面影を残した石垣の船着き場が残っています。
 そんな訳で、NHKの坂の上の雲で、英国から買い入れた戦艦三笠の横浜寄港の場面の撮影が行われたんです。NHKは本当によく探しますね。



この浦島屋は小泉八雲が九州旅行のおりに泊った宿どだそうです。夏の日の思い出とかいう紀行文に載っているそうです。
日本の面影は松江の八雲の居宅で買いましたけど、最後まで読んでいません。
宇土半島の南海岸は八代湾で名前が気になる湾です。
この北海岸は島原湾に面して遠くは雲仙岳が望まれる美しい海岸です。突如御興来海岸という案内板に出くわしました。  
4世紀の中頃,景行天皇が九州遠征をされた際,洗濯岩と干潟模様の美しさに見とれて,しばらくの間,御輿(天皇の乗られるかご)を止めて休まれ,それからこのあたりを”御輿来”と呼ぶようになったと伝えられています。
砂干潟といって干潮時にはこのような美しい干潟現れます。と書いてあります。なるほど夕日の海岸見てみたい。
潟に出ている人は貝を掘っているのか、ムツゴロウを捕っているのか。
のどかな、美しい風景です。

この浜でのラインは天草街道の名が付けられていますが、平行してJR三角線が、熊本までをつないでいます。
今2時過ぎですので、熊本市街の混雑を避けて輪行して熊本に3時過ぎに到着。 駅前のBSホテルに荷物を預けて、熊本城に出かけました。


以前50年より前修学旅行で来た時よりはるかに大きな感じです。
その後、各所が修復されずいぶんと立派なお城になっているのです。
そのそも、西南戦争の時に、西郷軍の攻撃前夜に失火で燃えたのですが、
政府軍の谷干城がよく持ちこたえ落城しなかったのです。
西郷曰く、「加藤清正に負けた」と嘆いた城で築城以来始めて役立ったと清正があの世で自慢したそうです。



 そんな訳で、正殿もその時燃えたそうで、資料頼りで復元したのだそうですが、檜づくりの立派な正殿です。


10日目 4/3
明日は雨とのことで、宇土の石橋めぐり、田原坂、山鹿、大牟田などに行くのを放棄して、午前中、熊本市内を少し見て新幹線で帰るととにしました。
いまから考えると、水前寺YHに泊って、旅の仲間から情報で旅心を刺激すれば、ファイトが出て旅の充実が増したではと反省しました。
これからは、もっとYHに泊って、たとえ一期一会の友でも豊かな旅になるのだと思います。



熊本は建築用砂岩のが豊富で、数々の石橋が明治時代に造られ今での立派に使われています。







この旅の終わりに再び熊本城にやってきて城の雄姿を納め帰路につきました。

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