自転車の奥の細道2015/11 



大石田付近の最上川


 私にとって、平泉や最上川の名はいまでも青春を思い出させます。古文で習った奥の細道や
よく山で歌った北上夜曲などが私を陸奥に
呼んいます。 


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10月18日日曜


 早朝、高槻駅で自転車をパッキングして新幹線に乗り、東京で乗り換え仙台へ。

車中ではスマホで「ビギナーズ.クラッシック 奥の細道」を読みながら、 そうは言っても半分は居眠りしていました。仙台には昼過ぎに到着です。 (この本は読み易く、原文と解説、現在状況など大変役立ちました。)
青葉城の伊達政宗

 大きな仙台駅は全国共通の新幹線仕様の駅舎。なんだかがっかりです。
10月下旬と云うのに、やたら暑いです。関西はもう晩秋の風が吹いているのに。
人目を避け裸になって、
ポロシャツに着替えて自転車を組み立てます。
さすが大都会です、誰も気にもしないで通り過ぎていきます。



日光様式の隋宝殿

 本日の予定の廣瀬川と青葉城は深淵なところと思っていましたが、大いにがっかりですが、正宗騎馬像は人物こそ違えあっちこっちで見ますね。皇居は楠木正成でしたか。


 伊達三代の菩提寺の隋宝殿はなかなかのもの。
三代目までは家臣は殉死した
そうで本当?側面に墓があります。
仙台藩初代伊達政宗は関ヶ原では東軍につき、伊達家の繁栄の基礎を作り、ローマに使節を派遣したりしでなかなかの大名です。
 戦国時代は奥州の地で、天下を狙ったりしていたそうですが。江戸幕府からのたびたびの改易計画を巧に回避したりして、頭の回る伊達三代であったようです。
そうそう、伊達騒動などがありましたが、何とか切り抜けた伊達家臣の能力もしばしば小説の題材になったりしています。

 それから、 宮城野の萩を芭蕉が見に行ったそうですが、今日泊まる東仙台のYHAの近くらしいので明日にします

10月19 日曜日

 昨日の宿泊は青年会館のYHで私一人でした。 2食付でレストランでの料理も悪くありませんが、作り付けでさめたイタリアンには閉口です。
前に大きなモールもあるので素泊まり4000円が最適でないでしょうか。
 いよいよ第1日目仙台>加賀城政庁跡>塩竃神社>松島、瑞巌寺>石巻です。
 YHAを出発するとすぐに、宮城野楽天の球場のそばを通りましたが、もはや萩の群生などあろうはずはありませんね。 畑は大豆の枯れ茎が乾燥目的か放棄か、9.11の塩害対策か、よくわかりませんが大くの畑にあります。
 多賀城市に入って小高い丘を登っていくと、多賀城跡に出ました。芭蕉が来たころはたぶん埋没していて、古代の史跡などどこにあるのかもわからないのがほとんどで、芭蕉が感激したのは、苔むした碑に蝦夷征伐のことが書かれている石碑を見て、千年前の記述に感涙をしたとのことです。
多賀城政庁跡

 この歴史書の多賀城碑は、2メータもあるものですが、気がつかないで、残念なことをしました。史跡の全体説明看板があったのですが、ちょうどその前で、整備作業の朝礼をやっていて、終わった後の作業の人達に囲まれてどっから来たのとか、どこえ行くのか?いろいろ聞かれて、案内看板をちゃんと見なかったからでしょう。


 人気のない古い史跡を独りいると、悠久のロマンが感じるのは、自転車の私も同じです。史跡巡りの旅は独りいい。
そして、人生下り坂最高ということ。
誰もいない政庁跡に一人座って写真を撮ってみました。
 近年観光ブームで、史跡が立派に、復元されたものを大勢の見物客と見るのは、どうもね。
ローマのコロセイムなんぞあまりの人で興ざめしていまいます。



塩竃の街道から、高い階段を上ると、塩竃神社です。

塩竃神社本殿


文治の灯篭
 文治の灯篭は藤原秀衡の三男の和泉三郎が寄進した灯篭で、彼は衣川で義経を守って戦死した忠義の士ですが、この灯籠を見て、芭蕉は感傷に引き込まれたそうです。
義経の無念にひたすら同情したのです。

私は子供頃は義経大好きでしたが、大人になって世間ずれしたせいか、頼朝の冷酷さと、義経の政治力のなさの運命は、ブレーンは次第では歴史違ったものになったはず。 できればブレーンになってあげたかったと思ったり。
しかしそれは愚か者の空想ですな。


塩竃の門前道りで3.11の津波の表記があります。



塩竃を出るといよいよ松島です、国道のところどころで海が見え、島々が見えます。 









五大堂のある松島海岸は大小数百の観光船が岸壁を埋め尽くしていますが、本日は月曜日ですので、二隻の大型遊覧船だけが運行しており、
 せっかくだからと、この遊覧船1500円/1時間に乗ってみましたが、どうもピンときません。

有名な観光ポイントはヤタラ人が多いのと、売店が軒を連ねて、自転車旅行には不向きです。


遊覧船は、島の名前の船内放送は興味などわきませんね。
とうとう退屈で寝てしまいました。 やっぱり小高い陸地から島々を見るのが良いのですが、あいにくと松島には見渡せる高い山がないのです。双観台などと名前が立派ですが、中心より西側でたいしたことはなりませんね。


なんせすっかり観光地化した場所では旅の情緒などどうにもならないです。
松島や あー松島や松島やと芭蕉さんも嘆くかも。これは芭蕉の句ではありません)
 ところで、芭蕉はこの松島で一句も詠まなかったのはなぜか?と解説本に書いてあります。
私はわかりますよ!!

そして瑞巌寺。山門手前の参道の石壁に彫られた仏像群を抜けていくと、山門にでます。1500円の遊覧船と無駄1時間のせいで800円の拝観料はどうも興ざめしてしまい、パスです。


瑞巌寺門前までの岸壁に掘られは仏像
松島を越えると震災の爪あともいえぬ石巻海岸を走り、復興事業の寒々した風景をみながら石巻市街に入りました
この垣根は多分防風の砂よけで、いずれは緑いっぱいの堤防になるはずです。

なぎ倒された外灯
津波の棲ざましさを残す放棄された民家。
 
 今夜は石巻の旅館です。
市街は見た目には津波の後など見あたりませんが、今夜の旅館も見事な新築と思いきや一階は津波に洗われ骨格を残して新築したそうです
部屋は最新の設備はほどこされ、自動の消灯システムは徹底しています。多分福島の原発事故の省エネ教訓なのかも。

10月20日

旅の行程の説明をします。
平泉からは芭蕉の行っていない花巻温泉に行き。翌日北上川を上り横手/湯沢に宿泊。次の日は輪行で天童に行。山寺寄ってから山形市のYHAまで38kmのサイクリング。

次は、山形より尾花沢に行き、最上川を下り酒田へ。酒田から象潟に往復、酒田から瀬波温泉(村上)そして新潟への行程。






 本日は、石巻を出発し、広い旧北上川をぼりました。この辺は旧北上川というらしい。新北上川はどこだろう??。学生のころよく歌った北上夜曲のせせらぎなどどこにあるんだろう?
北上川はたくさんのダムのがあって、川の流れは感じられません。 
旧北上川とはどういうこと?














 やっとわかりました。ここ登米市の河北町ので北上川は開削され、金華山東の追波湾にながれ込んでいるのが新北上川で、南へ分岐して石巻湾に行っているのが旧北上川です。
旧北上川が本来の北上川です。
洪水対策のために明治から昭和までかけて新北上川が開削されたそうです。さらにダムを造りダムだらけの北上湖という感じ。







 国道349号がの登米の狭い村に入って行くと今にも崩れていまいそうな石段の下に
日本三大弥勒寺の立て札がありました。
奥の細道三十三霊場だそうで芭蕉もこの霊場に来たはず。崩れそうな階段を登っていくと、手前の小山をには湯殿山や月山の石積がありさらに行くと立派なお堂が2.3棟ありました。正式の山門東側にあり立派に整備されていますが、どうしてあのような朽ちた立て札と石段があるのか不思議な気もします。きっとこれが本物の旧弥勒寺跡でしょうね。



弥勒寺から少し行くと花泉町に以下のような看板があり、芭蕉は雨が降りだしここから馬に乗って進み、夕刻一関に泊まり合羽も通す雨だったと書いてあります。
自転車だって、台湾では鉄馬といいます。おもわず芭蕉と同じ旅をしているです。
 ここから一関まで20kmは登り下り長い退屈なツーリングで、おまけにコンビ二など皆無です。やっと見つけた村の売店で、パンとカップ麺を買い、お湯を入れてもらって対面の廃校になった小学校の納屋の前に座っての昼食です。 早めにコンビで弁当を買っておくべきですね。
この退屈な国道342号は、一関てまえの高い丘陵をこえると平泉です。まだ2時過ぎにです。待望の平泉、ゆっくり見物しても余裕があります。
 最初の毛越寺は藤原氏の庇護をうけていただけに実に立派な境内ですがまさしく秋の紅葉の庭園です。
京都の大覚寺の境内に似た大きく開放感のある庭です。と云うのも、昔たくさんあったお堂が柱石だけが残った遺構が、歴史を感じさせてくれます。





 毛越寺を終わって中尊寺に向かう途中、義経終焉の高館義経堂に寄り道します。
薄暗い山道を少し登ると雑木林の中に、小さなお堂があります。
これが義経堂ですが、当時は立派な館であったのでしょうが、今は寂しいばかりですが、対面に北上川が流れ、川上には衣川の古戦場でしょう。
芭蕉が来たときは夏草の生い茂る丘であったのでしょう。
夏草やつわものどもの夢のあと}
と詠んだ芭蕉はもはや、義経の無念などは、ただの夢にしか過ぎないと詠っているのだと私は思うのですが。

 英雄を祭るお堂は寂しい限り


義経堂の中にある、義経の像。
誰が彫ったのか、ポーカフェイスのかわいい顔、なんとなく彼の単純な性格が出ています。
 ここ奥州まで流れ来て、慚愧の思いであったろうに、こんなトボケタ顔ではなかったのでは。




 いよいよ中尊寺ですが、山門からかなりな距離の参道が続きます。山門で拝観料を取らないのでこれはしめたか思っていると。 金色堂はご覧の鉄筋コンクリートの覆堂の中にあり燦然と輝いてありましたが、残念ながらし撮影禁止です。八百円の拝観料で、しいかり脳裏に焼き付けてということです。


すいませんねWebからのコピーです。

旧の覆い堂

 コンクリートの中の金色堂は、さすがに立派で拝観料云々などと、罰があたりますぞ。 外に出てしばらく行くと旧の覆堂がありました。金色堂は五十年前はこの中にあって、外から見れたそうです。


五月雨や降り残しや光堂
 芭蕉の名句ですが。やっぱり梅雨の時、静かな境内でないとだめですわ。
当時は覆い堂などなくて、雨に光リ堂が輝いていたのでしょうか?
実は覆い堂は鎌倉時代北条政子の命により、朽ち立てかけていた金色堂を修理し、覆い堂を作り納めたそうです。従って芭蕉はこの覆い堂の中にあった朽ち果てかけた光リ堂を見たんです。
それでも、こんな句を詠むなど、天才的想像力があったのですね。

 ところで、藤原氏を滅ぼした頼朝以降、時の政権によってかろうじて保護されてきた金色堂の歴史には、どの歴史書より興味あるものです
中尊寺歴史 この中尊寺、五十年前の学生時代に来ておけば、後ほどの人生も違ったかも。

今夜の泊まりは衣川の民宿です。五時半過ぎでしたが、おかみさんが表で待っててくれました。まァ偶然でしょうが、でもなんだかうれしかったです。


  10月21

  昨夜のビジネス民宿の夕食は、工事のおじさんたちと賑やかな夕食です。久しぶりに次々出してもらえるの熱い料理はうれしいです。 と云うのもこの二日間作り付けのさめた夕食は立派でかつうんざりしていました。

 本日つからは、芭蕉さん一向と別れ、花巻温泉に投宿する予定。
ところで、奥の細道では花巻ではなく   芭蕉は南西に戻り尾花沢をめざし、尿前の関(鳴子温泉)で、馬と同居の農家の曲がり屋に泊まり、

蚤虱馬のばり(尿)する枕元
これはユーモアいっぱいの傑作です。

 また、義経の北の方が子を生んで温泉で産湯をつかったって初めて泣き声をあげたので泣子(鳴子)と言われるようになったなど、伝承の地です。
実は今になって、花巻、北上川遡上を選ぶよりこちらを選ぶべきだったかと思っています。
 でも今では鳴子温泉は東北旅行のメインポイントですので、あまりの盛況にがっかりしたかも。



 衣川の民宿を出発して1時間も行くと奥州市埋蔵文化調査センタ-の看板にぶつかりました。
  胆沢城政庁跡は、仙台郊外の多賀城跡で勉強した、奥州三大政庁の跡だと知ったばっかりですので、予期せぬ到着に似非古代史の勉強家なっていて、埋蔵文化センターを見学することにしました。 ちょうど開館の9時ですので係の方に案内していただきました。

そこで勉強したことは、
 791年朝廷はたびたび奥州征服の軍を派遣し、もっとも有名なのが坂上田村麻呂です。私は彼は神話の人で、鬼退治に行った人だと思っていましたよ。

 当時、奥州は朝廷の支配下ではなく、蝦夷が勢力を誇って、朝廷は多賀城、胆沢城など数々の砦をつくり制圧にのりだしたのです。彼は、この地の蝦夷の頭目アテルを恭順を条件に投降させたのですが、都に連れ帰り、殺してしまったそうです。
やっぱり徹底抗戦をやるべきだったかも。

 奈良時代中期の聖徳太子以降律令制度が確立し、財政確保のために奥州に覇権を求めたた時代です。 
受験勉強しかしたことのなかった自分でも、多少残っていた歴史的知識が今、教養に変わったのは、蝦夷の兵士が展示室の入り口に飾られ、DVDで東北蝦夷の歴史を説明がされて、この歳にして、古代歴史に興味持てたのは幸わせというものです。

 
胆沢城政庁跡でイケイケ姿の若きチャリダー君に会いました。フルカーボンの自転車を誇らしげに説明をしてくれます。60万円もするそうで、ネットオークションで15万円で買ったそうです。ちなみに、私なんぞは7万円のTreckのクロスバイクです。
彼は、東京から札幌の実家まで帰る途中です。1日150kmも走るそうです。なんでそんなに走るのかと聞くと、要するに達成感だそうです。
私に向かって観光ですかとちょっと馬鹿にした言い方。気に入りませんね。ずいぶん趣味が違うですね。



 金ヶ崎あたりで、国道4号が北上川とすこしはなれたので、川の方向へ行くために右折すると、武家屋敷という案内があります。行くと、立派なもみじのあるお屋敷の前の出ました。

 隣の建物は、要害資料館と書かれています。  静まりかえった玄関に、恐れをなして見学を放棄しいると、写真の女性に声をかけられました。彼女は地元の新聞社の記者さんで、この紅葉の色つきをチェックしにきたそうです。わたしにモデルになってくれとのことでした。ついでに、インタービューを受けたのですが、要するにこの地の旅の感想です。

 彼女の説明によると、ここは伊達藩の北要害の地(砦)ということで北の守りために直轄の武士を配置して守りをさせていたそうです。 
今、その時の武家屋敷があって、今
この屋敷群は生活保存をしているとのことです。
よけいなお世話ですがこんなお屋敷を相続するには大変な相続税ながかかるのと思うのですが、どうしてるのでしょか。






予定のコースはこの橋を渡って、東岸の道をいくことになっていたのですが、







りんご畑の無人販売で一袋300円のりんご買って1個食べて、残りは重いけど捨てる訳にもいかず積んだりしてるうちに、東の道を行くのを忘れてしまいました。
宿で、誰かにあげれば喜ぶかと思ったりして。5kgぐらいはあるのではないか



 そんな訳で、予定ではないJR北上駅前に出ました。大きなビルやホテルのあるのですが、人っ子一人いない町です。昼飯をと食堂を探しましたが やっと見つけた蕎麦屋さんにはそこそこの人です。ゴーストタウンではなかったのです。




 花巻近くになって、宮沢賢治記念館の案内がでていましたので、寄ってみることにしました。
東野方面4kmとのことですが、この記念館はH200mほどの小高い山の上に立っていて、自転車は必死で押してあがらねばならない急勾配の道です。
おまけにあのりんごもです。


記念館前で写真をとってもらいました。こうして見ると、私も両隣と同じような世界に生きている感じですな。
もっとも猫の事務所とかで、お二人はお仕事をしておられるようです。
 私こそは、年金をもらって毎日遊んでいる童話の世界に生きている爺様です。


 記念館の中は謙治の生涯記録はどんな些細なことでも逃さぬばかりの収集です。
 しかし、銀河鉄道の展示DVDは、あまりにもプロの脚色が飛躍過ぎてついていけません。
 謙治の童話はストーリーが完結していなくて、子供を自主的に創造の世界に連れて行くようになっています。

読むだびに不満足で克つ不思議な世界に行くような気がしたものです。
 そんな訳でこの展示はどうなんでしょう。やらせの殿堂といった感じですね。



記念館のロビーカフェ 雑木林が美しい
 

 記念館を下って、もと来た道より北側の畑中の道を行くと、やがて花巻駅に出て、さらに花巻温泉に進みます。花巻温泉は立派なホテルが立ち並び、夕刻ですので、玄関先にはたくさんの仲居さんが整列してお出迎えです。
その前を大きな荷物を積んだ私が通り過ぎるのですが、誰一人気にかけてくれるはずもなく、さらに奥くへすすむと台温泉への看板がありました。小さくても風情のある旅館が並んであります。私の宿は一番古そうで、急勾配の坂の上ありました。



 今日の泊まりは私一人のようです。女学生のお客さんにと持ってきた重いりのりんごですが、この宿の子供たちにと3個を残してすべて進呈しました。
さすが鄙びた温泉宿です。でも夕食はご覧のごとくりっぱです。
カサゴの焼き物は実に立派ですが、冷たいので駄目です。花巻牛の鍋はグットです。




  10月22

 日は、花巻の山すそを南に下り北上川上流に出て、これを横手まで走る予定。
途中の錦秋湖は、名前のとおり紅葉すばらしいと楽しみです。
 北上川に出るまでは写真のような広い田園地帯を走ります。私はこんな風景が大好きです。
県道には時々、南花巻温泉の案内と並んで高村山荘の案内標識がでています。高村山荘というのは新しく出来たリゾートホテルだろう思っていませんでしたが、高村光太郎の記念館のことだったのです。



 
 県道をそれて山際に行くと、色とりどりの雑木林のなかに千恵子の展望台やら、散歩道などがあり、その中に大きな納屋があり、中をのぞくと、さらに小さな小屋らしきものがあります。光太郎が晩年暮らしたという小屋が保存されてあります。疎開した花巻が空襲にあい、営林署の小屋を譲り受け、昭和20年から27年まで暮らしたそうです。



湖面は悠々と水をたたえ北上川最上流のダム湖です。
 北上線の横川目に出て、いよいよ北上川を遡上することになったわけですが、なんと錦秋湖付近が土砂崩れのため全面通行止めの看板がでています。
そういえば10日前に東北地位方は大雨が降って多少の被害がでたとの報道がありましたが、いまだ通行止めとは。 必要とあれば高速道路に迂回せよとのこと。自転車ならば、押して通ることぐらいできるのだろうとそのまま進みます。
 この道107号は子規ラインなどの別名があり横手、秋田への国道です。 

子規の文学碑

 この文学碑は正岡子規が明治二六年に東北地方を旅行したときの散文「はて知らず」に書かれた湯田から黒沢尻を歩いたときの散文です。

 
北上線の和賀仙人駅前で交通量の調査をやっている爺様がいたので、通行止めでも人や自転車ぐらいは通れるかと聞くと、わからんとの返事、現場監督が危ないので許さんかもとの返事。
しからば電車で乗りこそうと思うがなんと、2時間半待たないと電車はない。





一か八か行くだけ行ってだめならしき帰そうと決心するが、しばら進んではたと考える。問題地点まで12km、徒歩通行も不可で最悪往復すると、この電車にも間に合わない。そんな訳で引き返して駅で2時間近くを待つことにしました。腹が減ったので、携帯食を食べたけれど、一向に満足感なしです。 やっぱり弁当は早めに買っておくべきです。
2度目の昼飯弁当の後悔です。




北上線ホッド湯田駅
 2時間待って10分乗って到着したホッド湯田駅はさすが有人駅です。
駅前にそば屋があります。3時過ぎですが、やっと昼飯にありつきました。

さてこれから横手まで28kmですがそこそこの登りです。景色のよいところを電車で通過して、面白くない国道の登り道です。

 かろうじて湯田高原峠付近にススキの高原がありました。


 この湯田高原にあった青山荘の名前は学生時代に立てた山小屋の名前と同じです。
山小屋に掛けてあった末川先生の額「青山人を迎えて新し」が盗難にあい、ここにあるかもと思ったりしたので、一応写真を撮っておきました。

まさか、京都北山から岩手の湯田高原までは来ていないですよね。
まァ退屈しのぎの連想です。



 6時過ぎ横手に到着。町中の小さなビジネス旅館ですが、職人さんたちのお客でいっぱいす。
ちゃんと熱いものを食べさせてくれました。自転車旅行はなんといっても温かい家庭料理の食べられるビジネス民宿がいいですね。


 10月23



 最初の計画では横手から天童まで輪行して、山寺立石寺に登り、そして山形への予定でしたが、せっかくだから横手市を見てから天童にいくことにしました。

 それで、朝は横手城に行って見ることにしてました。

横手城主はあまり歴史上の有名人でないのですが、城山からの初雪の鳥海山を背景に町が望めます。東側から見た鳥海山はまさしく津軽富士です。

 雪を被った山が見える町は楽しい物語のあるような気がします。



 案の定、石坂洋二郎の記念館があったのです。少し覗いてみました。早朝だったので来館者は私一人です。若い受付の娘さんがいろいろ説明をしてくれます。
洋二郎はここの女学校の先生で、「若い人」の朝日新聞連載予定が突如右翼からクレームがついて取りやめになった記事を見て、当時から朝日新聞はそうなんだと思いました。













 この写真、昭和三八年吉川英治の一周忌に集まった当時の作家の達の写真です。
あまり文学に興味ない私ですが、作家の名前だけはよく知っているのでなんとなく文学愛好者の気分で眺めておりました。





 10時前の奥羽本線で天童に向かいましたが、新庄で乗り換え1時間半の待ち時間、下車してと駅に降り立って見ると、祭りの山車が飾られていました。  世界遺産登録に登録しよう!!のスローガン。

 この新庄でよくよく考えてみると、天童を3時に出発して、山寺経由山形まで20km。山寺の高い石段を登って参詣して、山形まで行く時間などないことに気がつきました。それで、本日は山形まで行って泊まり、明日山寺に行くことに変更しました。
 山形駅は例の新幹線仕様の近代ビルになってすっかり変わってしまっています。なんとなく50年前の記憶があるのですが、つまるところ情緒のない全国一律の新幹線駅になってしまったということです。
今夜の泊まりは七日町のワシいトンホテルYHAです。シティーホテルがYHAをかねているってちょっとないでしょう。珍しいです。4000円/泊豪華朝食バイキング付きです。
日本のYHも集客力がおちて、どんどん少なくなってい来ていますが、こうすれば良いのに。

 10月24

 早朝、山形城に行きました。ここは霞城とも言われ最上義光の居城。
慶長出羽合戦で上杉景勝、伊達政宗との東の関ヶ原と呼ばれる戦は、複雑な三つ巴の合戦で、結果西の石田光成の敗北で上杉が撤退し最上勢の所領となるのですが江戸幕府に改易されたりして、、最後一番得をしたのが伊達政宗ということらしい。


山形城二の丸復元工事

 本日は、予報では午後から雨ということで、尾花沢に早めに到着したいので、山寺をやめて50年前お世話になったお寺に寄ることにしました。
 実はここの住職さんは一緒に旅行した木村先輩の嵐山の下宿のお友達の縁で東北旅行中に我々が伺がったわけです。
 フェイスブックで住所を尋ねておいたので、、朝電話をすると50年も昔のことで、一瞬思い出せなご様子でしたがすぐに思い出されて、お尋ねすることにしました。
時間を節約するために輪行して寒河江までいき、あと10kmほどを自転車で、河北町にある長願寺を訪問しました。




当時はかやぶきのお寺でしたが、いまや檜つくりの立派なお寺になってます。


50年前お婆様に三つ指ついてご挨拶されてびっくりしました、それと、豆腐とたまねぎの味噌汁味いまだに覚えています。

今でも、自分でも作った時は、必ず思い出します。でも五十年前の味にはとてもちかづけません。 多分無銭旅行に近い毎日の食事だったから、余計においしかったのでしょうね。

住職の松本さんは当時とは変わらぬ親しさで思い出話をしていただきました。 それとインドに聖地詣でされたお話愉快です。


 奥様に、栗ご飯まで接待していただき、昼過ぎ尾花沢に向けて再出発しました。
10kmほど行くと、紅花資料館の案内板がありましたので、立ち寄ってみました。
紅花の取引で財をなした堀米四郎兵衛門の屋敷で、この地の治安もまかされていた豪商です。武器などの展示と、京都から運ばれた陶磁器などいっぱいです。 ところで期待していた最上川のべに玉交易の歴史などは詳細に展示されていなくて、一寸当て外れです。べに花染めの工房などが併設されてはいましたが。





途中、道で見つけた紅花らしきものは本物か?。

 



















最上川は、米沢あたりから発し北上し大石田あたりで西回し、日本海酒田に達する流れは、ここ大石田で峡谷にはさまれた美しい大河になっています。
 芭蕉のが驚嘆した昔と変わらない流れです。 ここをべに花玉を積んだ船が行き帰りしていたなんて、想像するに感無量です。




大石田手前の船着き場で、川の砂岩がでて珍しい
 五時過ぎにはJR大石田の駅前に到着しました。 付近は石畳が敷かれ観光地として美しく整備されいます。
 私の泊まる民宿もきっと情緒ある鄙びたところだと期待をしました。ところが、ここから5kmほどあるらしい。尾花沢に近い民宿です。
近いと思ったけれどNaviの道は国道を越えると急に、寂れた村はずれに入っていきます。
おまけにNaviの指示の道が消えてなくなってしまいました。
もうあたりは薄暗く今にも雨の降りそうな気配。
 くるぐる曲がる村の細道、やっと墓裏にビジネスホテルなんぞの看板の家を見つけました。てっきり通り面した4階立てのビルと思っていたのですが、2階建ての古いアパートの感じです。 
 今日の泊まりは私一人らしい。アルバイトらしき若い女性が迎えてくれたのですが、夕食を頼んでいなかったので、近くのスーパーを教えてもらって、買い物にでかけました。 
 なんと、業務用スーパとかで弁当などはありません。 パンもないとのこと。これは困ったと思ったのですが、ふと、昼前に松本さんのお寺を訪ねるときにコンビニで弁当を買っておいたのがあります。カップめんとおつまみ、ビールを買っての帰り道、雨が降り出しまた。冷たい雨です。
予報では昼過ぎから降ることになっていたのですが今までもって、良しとすべきです。
 方向音痴の私は帰り道がわからない。わずか5分ほどの距離ですが。Naviを見ても細い道がありすぎてちゃんと案内できない。 ぐるぐる回ってやっと帰ることができました。
この民宿風ビジネスホテルは思った以上に快適なところです。ただ、石油ヒータの温度コントロールができなくて、風呂上がりで裸になって晩飯です。
  尾花沢は事前の調べでは、大石田ばかりに気がとられ、芭蕉清風記念館や養泉寺、山刀伐峠など芭蕉ゆかりのところがあるのですが、見落としていました。 特に、清風歴史資料館はここからわずか0.6kmにあったのです。

 後ほど本で見たところ、芭蕉たちは、追剥ぎが出るという恐ろしい山刀伐峠を案内人付きで越えてやっと、尾花沢に到着。紅花問屋の鈴木清風というの豪商の厚遇で10日も逗留して旅の疲れを癒したそうです。
 もちろん地元の旦那衆に俳句の指導をしたということです。すてきな句が残っています。

涼しさを わが宿にしてねまるなり
這ひ出でよ 飼屋が下の蟾ひきの声
眉掃きを 俤おもかげにして紅の花


 10月25

  朝、このビジネスホテル(民宿)で、若い奥さんに給仕をしてもらって朝食をいただきました。
ところで、彼女に何でビジネスなんて無粋な名前をつけてるのか聞いたのですが、 一人旅の方とお話しするのが楽しみとのこと。 なかなか粋なご返事、好きになっちゃいましたよ。
「民宿曾良」にでもすればきっとお客が押しかけるよと、勧めしたのですが。

 雨も止んで出発の準備にとまどる私をずっと見送りに出てきてくれました奥さんに、なんだか恐縮気味で出発したのですが。
ネットの予報に強風警報がでています。出発して、5分もたたない内に冷たい雨が降り出しました。濡れればやっかいなことになると、どこかのガレージの下で雨具を付けて再出発です。 ところがさらに20分すると止んで青空がのぞいてみえます。ただし風が吹き出しました。
もう一泊すればよかったなど思ったり。

 大石田にいったん戻り最上川を上るのでが、この辺の川筋はやたら蛇行していて、強い風が吹きつけ、長い橋を渡る時はよろよろと恐ろしいです。
NHKの正平さんなら大変でしょうね。しかし、渡し船はもっと恐ろしいですよ。笑



 いくつ目かの橋のたもとに烏川渡船跡の説明と歌碑があり、子規の句碑がありました。 彼もやっぱり芭蕉の道を歩いてみたかったのですね。   私と同じですなァ!!




「船引きの背丈短し 女郎花」
「蜻蛉や追いつきかねる 下り船」                          子規

それでは私も一句
「風 疾やし 橋怖しき 烏川渡し」    カズオ

思うに俳句を理解するのは現地に立てば良いんですね、 行ったことのないところの句は想像力のない私にはただの文字列ですが。     無粋で申し訳ありませんね。


新庄本合海の渡し場近く景勝




ここから芭蕉は船に乗って清川へ下った。

五月雨や集めて早し最上川
 はこの時の句だそうです。




すぐ下に芭蕉が乗ったであろう船着場がみえます。
各地でもらういくつかの冊子には、こここそが芭蕉が乗船した所だと書かれています。
行ってみると、どうもおかしい。 ま今はやりの偽装ということになりますか。 全国にコシヒカリもある昨今では、発句場所の特定競争はあたらずとも遠からじ、罪はありまへんね。

 






道の駅「とざわももかみ」 何で韓国風なんですか?
 強風はさらに強く、道の駅「とざわももかみ(最上)」で昼食をとりましたが、とても酒田まで走れそうではありません。
近くに陸羽西線のJR古口駅があるので、そこから酒田まで、輪行することにしました。


  数キロほどで古口の駅に到着。無人駅かと思うと窓口が開いて、十数名の観光客に切符を売り出しました。 どうも正式の駅員さんではなく委託駅員さんらしい。一本指操作で、キーを打って発券します。
 改札の上にに電光掲示板があり、列車の運行状況を知らせてくれますが、しきりと強風のために列車の遅延を放送しています。この駅員さんの言い分は、陸羽東線のことで、ここの西線は問題ないとのことです。
14時38分新庄行きは定刻に到着しました。 私の下り酒田行きはやってきません。皆さんは新庄行き乗って行ってしまい、私だけが取り残されました。 この駅員さんにいつくるのかと聞くと一本間引かれたので、次の2時間後の列車だろうと人ごとのように言ってさっさと窓口を閉めて帰っていきました。 風がやまないと明日までこない可能性もあるかなと一寸不安です。
誰もいない駅でスマホをいじって時間つぶしていましたが、列車は以外と早く1時間遅れでやってきました。突然の放送で、入線まで5分ほどです。乗降客がいなければ通過してしまうと心配で、あわってて向かいのプラットホームに走りました。


 酒田の宿は大正何年に建ったという古い旅館です。あいにく夕食は日曜日はないとのことで外に出ましたが、宿の主人の推薦の店が見つからない。結果、やたた愛想の悪い焼肉屋のおやじに遠慮がちに一人寂しく夕食です。 本当に感じ悪い!!

10月26

 酒田から旧七号線は深い松林の中を走ります。暴風林でその昔は砂漠だったそうです。

 吹浦に近くなると、突然川向こう鳥海山があらわれました。朝日が当らないので青い山様ですが、肉眼では中腹の紅葉が見て取れます。
2回生ときに飯豊朝日の合宿の帰りにこの山の裏側から4人で登ったのですが、あいにく台風の余波で頂上は大風、早々に下山、長い長い山裾を吹浦の海岸まで歩いたことが、昨日のような気がします。 近年は八合目あたりまでスカイラインが出来ていていて、天気がよければ自転車で挑戦する予定でした。


吹浦川より鳥海山をのぞむ。

吹浦駅を過ぎて道を海岸のほうにとると芭蕉の句碑があります。
あつみ山や吹浦かけて夕涼み

 
実際は酒田の句会で詠んだそうですが、今日の眼下の海は昨日の強風の影響で白波が立っていて船を浮かべるどこではありません。
翌日日本海を新潟に南下しているときに、温海町で同じ句の石碑を発見して、これぞ発句地競争になっているかと笑えました。 

暑き日を海に入れたり最上川

芭蕉が、鶴岡から船で酒田に入ったので、この句は実写ということですね。


十六羅漢のこと。 
吹浦海禅寺21代寛海和尚が 5年掛けて彫り込んだ十六羅漢が岩礁に刻まれています。
もちろん芭蕉時代はなかったのです、 明治元年に完成ですが、いまや遊佐町の観光ポイントなんですが、もし芭蕉の時代にもあったらどんな句をつくったでしょう。 

 今、日本海の荒波に打砕かれんばかりにあれば、 
 ♪ちょっと待て、世界歴史遺産登録、登録♪ ですよね!! 
それには温暖化で海水面上昇が必要かも。

十六羅漢像

 
 国道をさらに行くとや県境近くに奥の細道三崎峠と書かれた古い木柱がありました。昔は日本海に面断崖の難所で芭蕉がここを通過した時は疲労困憊で雨と波しぶきで、必死で歩いて象潟まで行ったそうです。




三崎峠の旧道
 翌日宿屋の主人は三崎峠は戊辰戦争の激戦地で奥州連合が裏切りの秋田藩のために薩長軍に敗れたと、ちょっと遺恨有りげに申しておりました。
そういえば、昨年秋に訪れた秋田城では戊辰戦争のことなど少しも書いていなかったのは、裏切りの秋田藩にとっては触れたくない歴史なのでしょう。












正午ごろ、すっかり天気もよくなり鳥海山の上の薄雪も見えます。
たった1基しかない風車が鳥海山と広い裾野の村の明るさを送っている感じです。 この下でお弁当を食べて、しばし昼寝をしました。

 にかほ町に入りましたが、つぶれかけたホテル蕉風荘の裏に象潟の地震での隆起の証拠「唐戸石」の説明がありましたが、なんでこれが、証拠の石かわかりませんね。地学的説明を要します。

 さらに進んでも、いっこうに芭蕉のゆかりの場所の案内板などなく、帰ろうと思いUターンすると蚶満寺の案内を見つけました。 
なんでこんなに観光案内板ない所かと不思議です。
それでは私が説明いたします。
 象潟は芭蕉が訪れてあと大地震があって、海岸が隆起してすっかり当時の景色がなくなったそうですが。ちなみに奥の細道の記述によれば、
象潟は日本海の松島といわれ、芭蕉が沖に船を浮かべてみる景色は、南に鳥海山が天を支えるようにそびえ立ち、その山影が象潟の入り江に映っている。東は遙か秋田への峠道。日本海の波はから入り江に流れ込んでりこんで、汽水域をなして、鶴なども飛来している絶景だったそうです。
腰長や鶴膝ぬれて海涼し

さらに 石巻の松島は笑顔の美人ごとく明るく、象潟は堪え忍ぶ寂しさの上に悲しみを漂わせている美女を思わたそうです.
象潟や雨に西施がねぶの花 
象潟の景色は心悩ませる美女を思わせるということ.
蚶満寺山門だけしかありません。

紀元前五百年頃の春秋時代の傾国の美人
西施の象。悲しくも呉に送られて、密かに越のために尽くした中国四大美人。

この石像は、昭和の無粋なおじさん達がたてたんですが、あった方がよいか、ない方がよいか、一寸わかりません。









九十九島



蚶満寺の裏手には畑中に小山がいくつか見えます。これが芭蕉の見た北の松島なんです。


今は地震で土地が隆起し島々は田んぼの中に点在する姿となってしまいました。
写真は昔は入り江の中にあった島々ですが、地震の隆起によってこんな状態。


現在象潟はにかほ市になっていますが、7号線沿いにはほとんど案内看板もなく道の駅象潟がまもなくでしたがばかばかしくてUターンをしたところに有名な蚶満寺があったのです。
 後ほどWebで調べたところ、象潟郷土資料館などもあり道の駅に奥の細道の資料館などもあるとかかれていますが、あまりにも不親切な案内で運良く蚶満寺に遭遇したので本当によかったです。

そんな訳で、4時すぎに、酒田に向かって7号線を寄り道なしで、30kmほどを2時間ほどで帰りました。     朝見た鳥海山の夕暮れですが、一寸寂しい感じです。
鳥海山の夕焼け

10月27
   
今日は日本海沿いの7号線の浜側の道を出来るだけ選んで新潟の村上まで100km走る予定です。

 宿の主人は日和山とは、昔天候の様子を見たからその名があるときいたので、まずその日和山らしき小山に上ると、視界もない雑木の山です。 どうせここも観光客には不親切な土地柄などとあきらめて下山下りましたが、、後で調べるともっと南側の河口に面したところだったのです。 宿の主人は親切らしいのですが、遠慮のせいか、聞かないと答えないのは一寸ね。
さらに酒田では有名な山居倉庫群があるはずですが、案内標識ももなく通り過ぎて河口の大橋に到着してしまいました。


これが、最上川の河口にかかる出羽大橋です。渡る時後方の鳥海山が朝日に映えて私を「またおいで!」と送ってくれているようです。




 橋の上から水面を見ると、数百羽の白い鳥の群れがいます。最初かもめかと思いましたが、なんと白鳥です。4,5羽が水面にから編隊で飛び上がる様チョット感激しましたが、次の飛行はなかなか始まらないので、写真に収めることは出来ません。はまさしく白鳥です。





橋を渡ると、整備された美しい公園になっていて、美術間などがありますが、そのおなかに土門拳の記念館がありますが早朝なので見ることを断念して、浜の松並木を走りました。

考えてみると、奥の細道というなら鶴岡に行って湯殿山と月山をはずすべきねなかったんです。芭蕉はここで良い句をたくさん作っているのです。

自転車旅行は、短距離での宿泊地の選定をもったいないとする傾向があります。
それで、重要なポイントを逃してしまったりします。これからは、どうせ暇な人生ですから、失敗ない計画をしたいです。




 予定の海沿いの県道を行くと、鶴岡市立加茂クラゲ水族館に出くわしました。
観光バスも数台やってきています。 私は水族館など子供のころ動物園の地下で小さな水槽にいるものしか見たことがありません。 この際1000円ですので見ていくことにしました。











おそら数千種類のクラゲが水槽のなかをきらびやかに泳いでいます。
名前などまったく知らないのですが、良くぞこんなに集めたものだと感心します。






ただ、私のようなものには、美しいクラゲの種類の多さにひたすら関心するだけですが、しまいには飽きてしまいます。
 そこは水族館も考えてあって、イルカのショウなどもあり人気を博しています。同じプールにゴマアザラシがいるのですが、芸をするわけでないのですが、時々止まってプールのへりから、ひょうきんな顔でこちらを見るの姿には観客はおお喜びです。




 加茂の水族館からは、庄内夕日街道と名がつく7号線は、岩壁をくりぬいた短いトンネルや砂浜、由良温泉街を越えると、羽州浜街道そして温海にはいるとおけさおばこラインとおなじ国道ですが、次々名前を変えていきます。 
 奥の細道では、芭蕉は旅の疲れで苦しい旅だったようで、越後までは特に発句など無いようです。 でも海岸は奇岩群があったりして景勝ではありますが、今日のように静かな海では退屈です。やっぱり日本海は荒れ狂っていなとね。








ここに再び
あつみ山や吹浦かけて夕涼み

の句碑がここ温海町にあります。確か吹浦にあった同じ句ですが、
あつみ町がここにあるのでなんとか句碑を建てたのでしょう。何とかここに名所作りをしたい、昭和の観光予算のおかげでしょうか。

芭蕉も暑さや雨にやられ疲労困憊、持病がおきて、ひたすら越後を目指して九日間歩きとうしたんです。芭蕉といえどもしんどければ歌などは作る気はしなかったのです。 これはわかります。私も同じです。



さらにここの説明文には、 「荒海や佐渡に横たう天の川」も解説板に附記されていましたが、ちょっと位置的には無理です。
実際もう少し先に行くと、鼠ヶ関の沖合に島が見えます。あれが佐渡島かと思いましたが、地図を見ると、
粟島という周囲15kmほどに島でウミネコの繁殖地のあたったりする漁業の島です。
 

粟島
 
いよいよ自転車の旅の終わりは、義経伝説の歌舞伎の鼠ヶ関です。
この関所は、平安鎌倉時代はここから0.5kmほどのJR駅のそばにあったそうで、今では住宅の曝気槽の上にありました。
写真はそれ以降に作られた新念珠ヶ関です。 国道に面した民宿の庭先です。
説明文には勧進帳のお好きな方にはとっても残念な話が書いてあります。史実は義経一行は船でこの関の沖合を何の問題もなく通過したと書いてあります。勧進帳鼠ヶ関はかなり嘘っぽい話ですが、判官びいきの人にはたまらないでしょう。


新念珠ヶ関
これから先の羽州浜街道は日本屈指のシーサイドコースとのことで確かに絶景海岸です。
でも、もう夕刻ですので、ツーリングがなんだか寂しいです。

 笹川流れとの名前がついていている景勝の海は北半分を下海府 南を上海府というそうです。
この笹川より沖合いの岩場まで潮流が見られたことが名の由来だそうです。日本三大海岸景勝の地とのこと。




 今夜の宿の村上は、20Km先にみえますが、後方の山脈は朝日連邦でかすかに雪をかぶっているのが見えます。さらにその奥が飯豊連邦です。
もし体力がゆるせば、来年の夏、この山岳コースを自転車で踏破したいものです。


 さて、村上市は行ってみると瀬波温泉という新潟県の有数の温泉街で立派なホテルが立ち並んでいましたが、私の泊まるところは、温泉街の外れの民宿です。もちろん温泉はありません。
ただ、ここのおばさんはとってもおしゃべりで、素泊まりのために、駅前のスーパーに車で案内してくれ、親孝行の3人の息子の話を自慢げに聞かせてくれました。明日は雨とのことで、新潟までいかず、村上から輪行して、新潟>東京経由で帰ることにします。

10月28

 朝、猛烈な風が吹いています。カップ麺で朝食をすませて、駅まで2km実際走ってみると風は海岸だけで、問題ありません。教えられた駅への道ですが、行ってみると、駅舎は線路向うで遙かに迂回し跨線橋を渡らないいけません。あのおばちゃん、鉄道なんか最近乗ったことがないいでしょうね。
村上駅は、温泉を抱えているだけあって特急も止まる立派な駅です。 新潟経由東京>京都の切符を買ってまずは新潟へ。
新幹線とは本当に便利、3時過ぎには高槻自宅に帰りました。

 後書き
奥の細道などと表題をつけたのに、肝心な所を見過ごしたり、通行止めや強風で走れなかったり
なんだか消化不良の旅になってしまいました。芭蕉の足跡をできるだけたどる旅に徹すれば、
鳴子温泉、立石寺、湯殿山など外すべきでなかったと思います。 
今回、夕食後はすぐに眠ってしまい、せっかくの見どころ情報などり失念して、結果先に進むことと天気のことに気をとられて、残念なことをしました。
ただ、中途半端ではありましたが、奥の細道を自転車でたどって、徒歩で歩いた芭蕉を幾分か感じられてよかった様に思います。

 チャリだーの参考までに宿泊情報を記載しておきます。
仙台市    エスポール宮城野YHA     4500円 素泊まり   A
石巻市    菊池旅館             7300円    2食付き    B
平泉衣川  民宿おっきり            6500円  2食付き   A’
花巻台温泉  滝ノ屋              7500円  2食付き   A
横手市     民宿阿部            6300円  2食付き   B
山形市   七日町ワシントンホテルYHA  4000円  素泊まり   A
尾花沢    ビジネスすがはら        5200円   朝食    B
酒田市    最上屋旅館            8000円  2食付き   B’
村上市    民宿ことぶき           4500円  素泊まり   C
評価は値段との兼ね合いです。


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