沖縄一周 2016/10

 沖縄本島1周なんて、安直な自転車の旅だろうと敬遠していました。20年前レンタカーで回った記憶が、安直な旅のイメージを作っていたのです。
しかし、行って見てあまりにも知らなかった琉球の歴史、あまりにも美しい海、そして今の沖縄の難しい問題も少しばかりふれて、意味のある旅になりました。
観光客で賑わう首里城
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10月26日

 この1週間、関西は急に冬の気温となって日中10度を下回る日々です。ろくに考えもせずに衣服を準備。那覇空港に着くと、蒸し暑いこと最高、着ていた混紡のシャツは、見る見る内にべったりりと汗がにじみます。
 空港で自転車の組み立ては、破損防止のためにディレーラを外していたのですが、再取り付けするとチェーンがよじれる。何度やってもわからない。たぶん暑さのせいで頭が回転しないのだ。河原君の提案で邪魔になる操作ワイヤーを切って、取り付ける。後で考えると切る必要などなくて外せば良いだけだったのですが、ディレーラ調整にさらに時間を要し、汗びっしょりで組み立てすることになってしまいました。
 そんな訳で空港を出発したのが午後5時過ぎです。宿は首里城に近い高台で、かなりの登り坂、またもや汗びっしょりです。やっと6時過ぎ沖縄最初の宿「沖縄家庭料理の宿なかはら」に到着です。
首里城夜景
 さらに、まずいことに夕食は予約されていないとのこと。そんなはずはないけど、どうもおばさんが忘れていたようです。しかたがないので、外に食べに出たけれど、紹介されレストランは高くてまずい。初日からまずい事が続いて、先が按じられます。
道々、龍譚池の向こうにライトアップの幻想的な首里城が見られたことが良かったかも知れません。

10月27日

 那覇には二泊することになっていたので、ゆっくりとい朝食を食べながら、おばさんから、首里の艦砲射撃の悲惨体験談を聞きました。よくぞ生き残ったことだそうです。実はこのおばさんは我々より三つ歳上だそうです。お婆ちゃんですがずいぶんと若く見えました。
いつもの河原君と民宿のテラスで計画の検討
本日は、首里城>金城町石畳道>識名園>福州園とおきまりのコースを巡ります。
首里城裏門あたり。
土人に憤慨する
 首里城は大勢の観光客がおとずれていましたが、裏門を出ると待ちかまえた中年のおじさに延々と基地問題の演説を聞かされました。大阪府警機動隊の「土人」呼ばわりから始まって、いかに沖縄が虐げられているかと云うことです。なかなか話終わりそうではないのでですが、丁寧にお礼を云って退散しました。 
その後沖縄を一周するなかで彼の憤りの意味が理解できるようになったのですが、共感するには沖縄人ではないので難しいかも。
 城をでて、急な下り坂をかろうじて自転車をささえ金城町石畳道を探しました。そこのは古い沖縄人の生活の遺構が残っています。昔の生活用水なんですね。
首里城の台地から流れ出た湧き水


急な坂道はチョット怖い。

石畳の坂が終わる頃、粋なたたずまいのレストランを見つけました。ちょうど南米からの人たち3,4人が出てきたので、様子を聞くと、とっても素敵ということです。入って見ると、 3,4の離れ部屋を渡り廊下でつないだ小粋なレストランです。昼食なら1000円までで十分です。おすすめです。





昼食の後、識名園に行きました。ここは歴代の琉球王家の別荘いうことです。


庭は熱帯植物が植えられていますが、屋敷もあっさりして、桂離宮のような感じです。1700年に創建ですのでまさしく日本庭園です。


 今夜の泊まりは、国際通りの路地裏にある「沖縄の宿あんどん」です。借り上げ下宿の様子で管理人は別のところにいて電話で呼び出します。近くの国際通りで遅くまで遊びたい人には良いロケーションです。まさしく一つ星の感じで、1室5000円、長期滞在には良いかも。 台所や冷蔵庫も使えます。Boocking.comに登録されています。 

10月28日

 本日より西海岸を北上して辺戸岬から東海岸を下り、中部うるま市を経由、南部の戦跡糸満を回って、那覇に戻り泊港から、国立公園慶良間諸島にフェリーで行く計画です。
初日。
那覇>牧港>座喜味城跡>残波岬>恩納村 合計70km。
国道を避けて、海沿いの道を行くと、早速海兵隊のキャンプにぶつかります。海側を進めない。混雑する国道58に戻ると、今度は嘉手納空軍基地が続きます。やっと読谷村あたりから海側の道を走れます。読谷村海岸は沖縄戦の上陸用舟艇が殺到した浜ですが、今は市民のシュノーケルとダイビング練習浜です。


 ところで国道は、暑さ31度をこえて、さらに向かい風、湿度が高いのか身体がべたべたします。5kmごとに自販機で買う水や冷茶は命の水ですね。
 それと、コンビニで白い無地のTシャツ650円を買って着替えます。パンツは半パンです。いまだ半パンで走ったことがないのですが、とてもニッカではむせて気持ちが悪い。

 昼すぎ最初の目的地、読谷村座喜味城に到着。涼しげな松林を抜けていくと城壁が見えます。 



カン-カンと鳴る小鐘のような蝉の声、内地では経験のない声です。Webで調べるとオオシマゼミというらしいです。
Clickしてみてください。  Web オオシマゼミ


座喜味城

沖縄には遺構の残る大きな城跡が5,6箇所、1400年代の構築とのこと、日本では室町時代、いったい琉球ではどんな戦国時代があったのでしょう。

 沖縄には名前だけが残っている城(グスク)は数十あるので小さい城は沢山あったのでしょうね。サンゴ礁の石灰岩が軽くて豊富だからさしずめ本土では土塁にあたるのでは。



 城跡を後に、西の海岸に出ると東シナ海です。そして岬は沖縄には珍しい断崖が2km続く残波岬です。

 仲程氏の写真を拝借しました。残波岬Web

沖縄の海には珍しい絶壁が付いています。


泰期の像

この銅像は琉球時代の商売の神様、泰期だそうです。当時の中国に何度も渡って琉球に富と文化をもたらしました。まさしく貿易国沖縄の英雄です。





 さて、もはや2時過ぎ、予定の宿泊地恩納村嬉真まで30kmです。
強い向かい風で苦労します。自販機の水に何度もおせわになりながら、もはや6時過ぎ早や夕暮れです。
目的の宿を示すWebマップの位置にきましたがそれらしい民宿など見あたりません。
散歩のおじさんに聞いてみると、指さす3階建てのアパートの上階だそうです。 細い路を行ってみると、アルバイトの学生でしょうか待っていてくれました。
いわゆる空き部屋民宿です。2LDK 洗濯機もあって清潔な部屋ですが、夕食には1km先にリゾートホテルと、2,3軒のレストラン、コンビニがあるとのこと。宿泊代は一人3500円でロケーションの悪さを除け良好です。



10月29日

 朝食は昨夜買っておいたコンビニおにぎりと味噌汁で済ませて出発です。本日は西海岸の観光ポットが沢山あるのですが、向かい風が強くていやな感じ、苦労しそうです。
海洋博公園>美ら海水族館>今帰仁城跡>古宇利島大橋>国頭村辺土名の民宿74kmです。 どれも人気観光スポットです。


瀬底島への橋


海洋博公園の中にある植物園
 渦巻きロールが窓の外に見えるレストランで昼食をしたのですが、炊き込みご飯上にレタスとトマトのサラダがのっている。タコライス」の名前ですので、蛸飯のことだろうと確認もせずに注文。
 食べてびっくり!! タコとは挽肉のソボロのこと、、おまけにこの挽肉は2級品でやたら堅い。沖縄らしいご飯をと思ったのが大失敗です。河原君の三枚肉のカレーがうらやましい。
このまずいタコライスは沖縄の名物らしいです。ご注意ください。
 食事をすませて、消化の悪い挽肉のゲップをしながら、走ると海洋博公園のメインゲートに到着です。入場無料ですが、各会場は有料で、特に水族館は大入りです。たぶん数千円の入場料だと想像して、時間も無いしパスです。
請教我台湾自転車小姐名
 駐輪場にもどると、我々の自転車をしきりに見ているチャリダーがいます。チャリンコスーツのよく似合う美人さんです。
ママチャリでチョット周辺をサイクリングだそうで、台北からやってきたそうです。話がはずんだのですが、FBのアドレスぐらい聞けば、しばらく行っていない台湾に行く楽しみができたのですが、遠慮してしまいました。レーサーパンツのお尻が素敵でしたよ。

それから、2km先に有名なフクギ並木の村に行きました。

小さな集落でしょうがフクギのトンネルになってた通路で家々が結ばれ、ほんとうに涼しそうなたたずまいです。水牛の牛車の案内が有名ですが、一台だけのようで乗り損ないました。

 岬から少し東5kmの周り込んだところに今帰仁城跡があります。ここは世界遺産になっています。当然入場料が入ります。





1400年代に築城さてたそうで、先の座喜味城の数倍の大きがあります。1600年代に薩摩が琉球征服にのりだした時は北部の要塞であったそうですが、簡単に破れています。こんな立派な城を築いた琉球軍が遠征の薩摩に簡単に破れていしまうのも不思議な気がします。伝統的に沖縄人は平和思考でやさしのですね。
 写真の城門への並木道はヒカン桜で、2月はじめに満開となります。 この桜は台湾桜と同種で、小さい赤い花が咲きます。
私が台湾いた時は、その季節は小雨と寒さもあって満開でも、もの悲しい感じがしたものです。ここではどうでししょう。

 さて、この今帰仁城までで時間をとったせいで、もはや3時過ぎです。これから国頭村辺土名までは30km以上ありますが、この向かい風強風のなかなので、7時頃の到着を予定しました。

時間稼ぎのために、強風の古宇利島の大橋2つを渡ることは断念しました。


古宇利島大橋
 この半島を回ってR505が北向きのR58線入ると、まともに強い向かい風を受けることになり、時速8~6kがせいぜいです。
夕刻6時をすぎて暗くなり、半島の先の明かりまで15kmはいっこうに縮まりません。




波が時々しぶきとなって顔にあたります。風をよけるためと、安全のために対向車線側の歩道を走りますが、もうすっかり暗くなって
対向車のライトで道が見えずらい、暫し止まってライトをくくりつけてみますが、あまりにも薄暗くて、注意深く歩道の切れ目を探りながらの走行になりました。
結局目的に民宿いずみ屋に到着したのは8時前です。

この民宿も素泊だけで、主人はいません。6畳ほどの部屋が5,6室と、共同の狭いシャワーとトイレがあるだけ。サービスヤードはありません。朝の顔洗い場は外側です。
でも、宿のご主人が我々の夕食の弁当の買物に、4kmほど戻ったコンビニに車をだしてくれました。
 帰り道に日航のリゾートホテルと米軍将校用保養地の前を案内してもらいました。沖縄での最高級のリゾート浜の感じです。
それにしても、我々の泊まる民宿のレベルとの落差は誰向けだったのでしょうね。眠るだけには不足はありませんが。

10月30日

今朝も、相変わらずの強風です。20km先の最北端辺戸岬まではかなり苦しみそうです。
強風の辺戸岬近くの海岸

辺戸岬からヤンバル台地を見る。
祖国復帰闘争の碑
 沖縄は1972年に本土復帰。私が30歳のころです。当時米国は共産主義防衛の前線基地として、沖縄を返したくなかったそうですが、大基地容認の条件を政府が呑んで変換してもらったのです。これが良かったか、悪かったか、現在の沖縄の苦しみでもあるわけです。


辺戸岬は案の定、強風北の風、髪の毛が逆立っているでしょう。



さて、向かい風で苦しんだ岬を回って東海岸を南下するコースは、楽々チンの追い風と思って楽しみしていましたが、全く風が吹かない、どうしてなんでしょう?このブログを書きながら地図をみて納得。西海岸の強風は北北西の風で、東側は中央の山脈が壁になって風が止められてまっているのです。そういえば、チャリンコで北の宗谷岬の時も同じでした。
 
やんばるの森に最初の岩山 西銘岳240m
期待の追い風などはなく、辺戸岬から10kmの最初のピークを越えて、海まで下ると、
奥ヤンバルの里の村営公園があります。
まだ11時過ぎですが当面食堂も、コンビニもなさそうな地域ですので、ここで昼食をすることにしました。
食堂は11時半からの開店とのことですが、早くから入ってのんびりと料理のできるのを待ちましす。


食後、少し昼寝をして再度山岳コースに挑戦です。
ヤンバルの森のコースを説明すると。


森の長さは、40kmほどでピークが3つで、アップダウンがほぼ交互に現れ非常に苦しいです。いわゆる合計獲得標高は1240mでになります。
午前中に、西海岸の辺戸岬までの20kmは向かい強風でエネルギーを消費していたので、ファイトをすっかりなくしていたので、最初から少しの登りでも全部歩いていました。しかし、結構勾配があって、荷物の重い自転車を押すが苦痛です。このヤンバルの森、あまり経験したことのない苦しい行程でした。

この道路で時々姿を見せる沖縄の蝶、本土でよく見かける蝶も琉球仕様で少し違う。初めて見る蝶も数匹。子供の頃に夢中になった昆虫採集、沖縄が蝶の宝庫だと知っていれば、独りでも行きたかったです。


半日の間に道路で見かけた蝶々たち。


海兵隊北部訓練場入り口

 4時過ぎ、やっと海兵隊北部訓練場高井村あたりでヘリポット建設の抗議地点に到達。つまり機動隊が土人呼ばわりした地点です。
本日は日曜日で双方とも休戦の様子で、数人の地元警官が
機動隊に代わりに訓練場の門を警護していました。
「大阪から自転車で来たんやで!ご苦労さん」などと冷やかし半分とチョットこわごわで写真をとらせてもらいました。
ところで、私は「土人」が差別用語と思いませんね。むしろ愛着こそありますが、云われた沖縄人も笑って済ませばかっこいいと思います。

 やっとヤンバルの森、最後のピークを越えて下り坂にさしかかったところの売店で、自販機にすがりついていると、地元のおっちゃんに「よくまーヤンバルの森を越えてきたものだ」とほめられたのかあきれられたのか。後は下り一方などと安心させられましたが、どうしてどうして登りも沢山ありました。
 6時過ぎ目的のやっと夕暮れのせまる東村平良の民宿に到着。
 イヤーこの民宿にまたもやびっくりさせられました。古い廃品利用のコンテナー改造ハウスです。


まさしく廃品コンテナー5戸の民宿です。
それでも、2食付きで3300円
/人でした。トイレ、シャワーは室内にあり、立派なものです。テラスもあります。庭は花がいっぱい。食事はおばちゃんが小屋まで運んでくれます。
朝食は数匹の野良猫たちとおばちゃんのおしゃべりはつきることがありません。ちなみに「民宿なかま荘」といいます。是非いらしてくださいませ。

10月31日

今日は海岸線です。わずか追い風、快いツーリングです。手つかずのすばらしい海岸風景が次々と目に飛び込んできます。


大浦湾あたり。
岬の先端は、辺野古崎あたりか。
そして、また少し上ると、辺野古崎闘争地点に到達です。
キャンプシュワ-ブの辺野古基地前抗議団体テント
今日は月曜日、活動開始です。応援の翁長知事の独特のイントネーションある応援の声がします。録音ではないと思います。「この美しい沖縄に基地など決して作らせないよう皆さんがんばりましょう」 
私たちは、人ごとのように通りすぎていきます。チョット恥ずかしい。(普天間基地の辺野古移転案は墜落事故回避の合理性を認めないのか?)


この美しさを破壊するのは誰だ!

辺野古を越えると、小さな道の駅で休憩しました。そこにあった真実の顔には宜野湾村とイタリヤ共和国との友好、親善とあります。そんな親善協定があったのですか?噛まれないように。
ところで、ここの氷ぜんざいの旨いですよ。
小豆は沖縄産か??是非賞味あれ。



そして金武町とうるま市に入り海中道路で平安座島に渡ります。
海中道路なんて誤解されますね。平安座島まで5km橋は大部分堤防でつくった道路です。中央に100mほどだけが、つり橋があります。


浜比嘉島へ橋からの夕日
島の西側にある民宿「ゆがふの郷」に到着、はじめて民宿らしい民宿です。2食付5000円/人でどんな夕食が出るのかな。楽しみです。
お刺身から始まっていろいろ食べきれないほとです。最後にでたのが、これ豚足と思いきや、脊椎の軟骨周りとゴーヤの煮物です。まさしく沖縄の家庭料理です。
夕食時宿の主人に辺野古闘争の話をしたら即座に、この美しい海に基地なと絶対出来ないとはっきりおっしゃいました。
もずく網ではないか。

11月1日

 朝、浜比嘉島からもどりの橋はちょうど北向きにです。猛烈な向かい風、吹き飛ばされないように、背を低くして橋の中央までは押していきます。


手前が島に渡る海中道路で、水平に見えるのが浜比嘉島への大橋
海中道路ということ。
真ん中の吊り橋は100メータほどですが前後は土盛りした長い土手です。たぶん海は遠浅で橋をかけるより土盛りした方が安くあがるのでしょうね。?それとも自然にできた砂州を利用したのでしょうか。
Webより拝借した空からの写真をごらんください。
沖縄本島中央部には、三つ城跡が有ります。その一つ勝連城蹟は標高100mほどの丘にあります。遠くからは小高い山のてっぺんという感じです。
沖縄では小高い丘があれば大抵は城があったようです。

この勝連城と少し南にある中城と争い、仲裁に入った強力な首里城に滅ぼされたそうです。歴史小説にはもってこいの材料ですね。






城内には巫女が祭事を行った井戸があります。水の量で豊作を占ったそうです。今でも水があります。








 そして、さらに10km南の中城を目指しますが、国道から見て高い丘にそれらしい石垣がみえます。国道からの分岐の入り口の標示板に距離2Kmの標示と、城の高さと計算するに、かなりな急勾配です。あっさりパスしてしまいました。あとで琉球史などを博物館で見て、歩いてでも登って行くべきだったと後悔しました。
 要するに、事前に歴史的興味を醸成しておかないと、安易にパスをしてしまい、後で後悔することになるのはしばしば自転車の旅でやってしまいます。 しっかり知識を入れておくと無理をしてでも行く意欲がでるものです。
中条城跡 Webより


 後に、反省がてらルートラボを見ると結構な勾配です。浜比嘉島から10km h100が勝連城 次に30km h190が中城です。 最後の山は斎場嶽。そして岬が知念岬です。
 斎場御嶽は沖縄の霊場とのことで、入り口は人気のない駐車場と売店や食堂が並んでいてチョット興ざめでパスしました。ところがです、世界遺産に登録されており決して見落としてはならない観光スポットだったのです。入場料はたった300円だったのです。


Webより
せめてWebで写真ぐらいを掲載して、大いに後悔してみましょう。

その先に知念岬がありますので行ってみました。
知念岬から最南端嬉屋武岬を望む
1945/6 米軍艦でいっぱいだったのでは。
今夜の泊は、摩文仁の丘の下、奥武島です。ネットでGoogle.map.探した民宿「おおじま」です。国道R331から海岸に50mほど降りて橋を渡ります。
 島に渡ってみると、古い3階建ての屋上に半分消えかけた「民宿おおじま」の文字があリます。玄関に行くと、看板もなく一見休業中かと思いましたが、独りテレビを見ているお婆さんに泊めてくれるのか尋ねました。彼女は合点のいかぬ顔です。確か3日前に予約したのですが、覚えがないようです。
「これから部屋を掃除をするからしばらく待って」ということなので、それなら先に夕食をすませてこようと浜にでました。お薦めの食堂はなんと3時まで。出店のてんぷら屋があったので、エビ、イカ、搔き揚げ、そして、ビールを買って民宿に帰りました。
ところが、あのお婆さんいくら呼んでも出てきません。しからば勝手に上がり込んで台所から大皿をだして天麩羅を盛りつけ、テレビを見ながら、てんぷらでビールを飲んでいると、お婆さんが出てきたので、厚かましくご飯をお願いしました。快く残り飯と、味噌汁を作って出してくれました。
彼女は我々のご飯の間、沖縄戦の時の話をしてくれます。
8歳だったそうで、村役の指示で、わざわざ司令部のある摩文仁まで移動し、艦砲射撃を受けて、九死に一生を得て戻ってきたそうです。負傷もしたので、その後はずっと野戦病院に通ったそうてす。
当時は、子供ながら進駐軍には感謝したそうです。

11月2日

沖縄戦最後の司令部、摩文仁の丘にいきました。
入り口に広い駐車場があり売店の建屋が2軒ほどありますが、閉店しており閑散としています。早朝なので、観光バスがやって来ていないようです。たぶん終戦記念日やお盆だけには参拝の人たちがやって来るのでしょうね。


沖縄師範学校の健児の塔
Clickしてください。健児の塔
小学生の頃この映画を見た記憶が今でも鮮明です。


沖縄司令部最後の地
黎明の塔


第32軍司令部の洞窟跡ですが、周りには沢山洞窟があります。次々と火炎放射器で焼かれてですよ。
そして、さらに西4kmにある「ひめ百合塔」といきます。

ひめゆりの塔と平和祈念資料館。 修学旅行の高校生でしょう、ボランティアのお爺さんの悲惨な説明をきいて最後に黙祷をしていました。
 また資料館は師範学校女生徒のひとりひとりの写真や手記が飾られ、あまりの悲しさいっぱいの資料館です。




20年前に来た沖縄の唯一印象深い処は南端の海を背景の城跡はどこだろう。景色は覚えていますが、具体的な場所は覚えていません。
地図を見て多分この城だろうと密かな期待で進みます。
青い海と白波に映える珊瑚礁からなる石灰岩の城壁は20年前とほぼ変わらない当時とかわらない悠久のロマンを感じさせてくれる紺碧の城跡です。


珊瑚礁の海とのコントラストが数百年前のロマンを感じさせてくれます。




この岬の向こう最南端嬉屋武岬
地図を見ると沖縄本島の最南端は嬉屋武岬と灯台がありますが、特に南端岬に行こうと強い意志を持っていないと見逃してしまいます。
この岬に行くにはここから磯におりて崖淵を伝って行くか、細い農道回ってを行くことになります。 
実は私は最南端の嬉屋武岬には全く注目していなくて、ブログを書きながら、地図をみて最南端に灯台と岬に気がついたのです。
 道しるべに手書きに嬉屋武岬の指示がでていました。その意味を理解していませんでした。 サイパンのバンザイ岬と同じ投身自殺された処だとのこと。
Webからの拝借 喜屋武岬


ところで残り三日、慶良間諸島の渡嘉敷島に行く予定です。
渡嘉敷島の民宿に予約電話を入れると強風で船が出ないのではと言われたので、昨夜のゴウゴウとうなる風が心配です。
 とりあえず、港の近くの宿春海YHに行く前に泊港フェイーターミナルに寄って運行状況を確認しに行きました。高速艇は欠航。フェリーも正午出航の一便しかないとのこと。明日、島には自転車と荷物はYHに置いておくことにして眠りました。予報では明日も強風とのことです。

11月3日

7時にはフェリーターミナルに行って出港情報を待ちますがどうも12時半の便しかない様です。
ふと隣の切符売り場の座間味島行きは、9時出港のフェリーがあります。そして久米島行きもあります。
考えるに、それぞれ船会社が違うので出港情報が一覧で表示されないのです。各社のフェリーの大きさが違うようで、渡嘉敷島に行くフェリーだけが朝便は欠航です。それで急遽、座間味島に行くことにしました。
逆巻く風
9時30分に、出港するとかなりの風で揺れます。誰かが「救命具の在処を確認して!」と叫んでいます。船首のデッキに居た数人がもろに波をかぶって悲鳴をあげています。船員が出てきて吐き袋を配ってくれます。
 私たちの心配は宿は予約していませんので、有るかどうかわからないことです。すっかり忘れていましたが11月3日から5日までは3連休ですので、最悪、港の待合室で1泊なんてことも有るかも。


阿嘉島に入る
 船は乗客の心配など気にもせず、大小の島を縫って、渡嘉敷島裏側の阿嘉島に到着、ここ慶良間諸島は2年前国立公園になっています。さすがに海の色は瑠璃色に輝いています。


 最初の寄港地阿嘉島では乗船客の半分以上が下船します。
どうもこの島の方が人気があるようですね。

 座間味島に定刻12時10分に到着です。



下船すると、すぐに観光協会があって宿の有無を尋ねると、ちゃんと地図で空き部屋のある民宿を数軒教えてくれました。結構空いて心配することはなかったのです。
快適な「民宿みやむら」


こんな犬像、特に説明書きもありません。webで調べてみました。
1988年の映画「マリリンに会いたくて」フィーバした犬だそうです。阿嘉島の雄シロが海を渡ってマリリンに会いにきたと言う実話を映画にしたそうです。是非Clickしてみてください。
映画マリリンに逢いたい








女瀬の崎展望台。



村長以下59名集団自決の碑
沖縄戦米軍最初に上陸した座間味島で島民以下千余名が自決したそうです。じつは陸軍の命令だったとのこと。そんな命令をしたことはないという元軍人もいますが、十分想像できますね。
この島では大きな慰霊碑がもう一つあるのですが、特に観光客を思ってか慰霊碑の案内板など一切ありません。集団自決の話は広く伝えないようにしているのでしょうか?あるいは靖国派の人たちなどに遠慮しているでしょうか。

11月4日

国立公園慶良間諸島座間味島はダイビングの出来ない我々は1日で十分です。12時のフェリーで那覇に帰ります。
 泊港に2時過ぎに帰り、最後の仕上げとして、県立博物館に行ってみることにしました。



入場料はたった310円です。古代歴史から近世、現代の博物館の展示はよく工夫されて、すばらしいです。
 13世紀の清朝貿易で繁栄した琉球王国の隆盛と17世紀の薩摩の侵攻そして明治維新の王朝廃止の歴史、大変興味深かったです。中共が沖縄は中国の領土などと、ほざくのもまんざら歴史的根拠のないことではありません。




このシイ-サとっても可愛い



博物館内は写真撮影禁止ですが、これは海外の博物館のように開放すべきだと思います。時間の限られた観光客に膨大な資料を一瞬見せて終わらせるには、もったいないと思います。2時間以上いましたがもっと見たいことがいっぱいです。
 今夜の泊まりは、空港に近い豊見城公園にある国際YHです。
大浴場も、食事の出来るサービスルームもあります。


わずか3500円/人なので、自転車旅行やひとり旅には最適な宿ですので、おすすめですよ。

11月5日

那覇空港発1時30分Jetstarで関空に帰ってました。なんだかわからないけれど、我々だけに熱いコーヒがでました。

後書き: 世界遺産の中条城や斎場御嶽など見落とすのは残念至極です。特に中条城蹟は一番大きくまたスタイルも他と違って見応えのある城跡だったに違いありません。後に行かれるチャリダーの皆さん注目ですよ。それと、最南端喜屋武岬も。
(斎場御嶽は今考えてみると当時は何か休館であったかも知れません。)

沖縄の問題について。
 沖縄をぐるっと一周回って、こんなすばらしい風景と海を持つ県は無いでしょう。今、世界に誇れる最も安全なリゾート地です。惜しみなくは至る所にある米軍基地、戦前も今も本土の安全保障の犠牲にされているとおっしゃる沖縄人の気持ちは、今回大いに理解できました。
 もっと言えば、市街基地返還のために過疎地に基地を作らせるというのは本州人からすれば合理的なことのようですが、沖縄戦で本土防衛のために無意味な犠牲を強いられた沖縄人にとっては、未だに忘れ得ぬ怨念であります。基地は何が何でも絶対反対というのはこんなところからあるのです。
 だからと言って、ほかに良い方法などあるはずも無いのも現実です。
また、膨張する中国の脅威が沖縄に迫って来る日は遠はないのも現実です。
そして、米軍基地があるからと云って安心出来ないのも現実です。
2016年11月記


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